毒を食べても平気な男

食品化学新聞「食品技術士リレーシリーズ」 2012.05.03掲載

横山勉 技術士(農業部門)横山技術士事務所

 リスクコミュニケーションの一環として、食品の安全性について一般市民に話すことがある。そのようなとき、一方的に話すのではなく、参加者と交流しながら進めることを心がけている。問題を出して、回答を受けるというのがひとつの手法になる。
例を挙げよう。

・問題1:ある男が「俺は毒を食べるのが趣味で、あらゆるものを試してきた。昨日はフグの肝・今日はトリカブトを食べたが、なんともない」といっている。どうしてだろう。

 頭の体操ではなく、科学的な回答を求めている。「毒への耐性を持つ」という回答がありそうだ。確かに酒やタバコのように、ある種の毒物は耐性を獲得できる。最初に試したときは具合が悪くなっても、次第に手放せなくなることがある。そうであっても、あらゆる毒物に耐性を持つということは無理な話だ。

正答はいたって簡単、「少量だから」である。フグ毒テトロドトキシンやトリカブトのアコニチンなど猛毒といわれる化学物質でさえも、少量であれば人体に影響がない。ただし、実際に試すことはお控えいただきたい。

問題を続けよう。
・問題2:食品は基本的に生物に由来する。例外があるが、何だろう。

・問題3:食べられることを目的に生物がつくる食品がある。何だろう。

 生物に由来しない食品は、食塩である。問題3の正答は果物と乳で、ハチミツを加えてもよいだろう。これら以外の食品は、他者に食べられるために存在する訳ではない。むしろ、食べられないように防御をしていることが普通である。牛乳有害説というトンデモ説があり、その根拠に牛乳は子牛の食べ物というのがある。こんなことを信じたら何も食べるものがなくなってしまう。

 植物において、食べられないための防御策は物理的・化学的・生物的手段に分けられる。物理的な例はトゲであり、生物的な例には昆虫のアリに守ってもらう「アリ植物」がある。最も一般的なのは、化学的手段である。通常の野菜を分析すると、多様な有害物質が検出できる。一方、植物を食べる動物には、これらを感じとる能力が備わっている。アルカロイド等の毒物は苦味として捉えられる。基本的に毒物のシグナルであり、コーヒーなどの苦い食品を楽しむには訓練と慣れが必要になる。

 長い食経験があるといっても、確かなことは急性毒性がないというだけである。慢性毒性を通常の食経験から認識することは困難だ。食品は「未知の化学物質のかたまり」であり、多かれ少なかれ叩けばホコリが出るものである。それぞれ固有のリスクがあると認識すべきで、多様な食品を摂るように心掛けることがリスク分散になる。もちろん、栄養学的にも好ましい。

その点、性質が細部まで明らかなのが食品添加物と農薬である。これらは一般市民に嫌われる存在であることに疑いはない。しかし、急性毒性と様々な有害性が調べられて、人体に影響のない一日摂取許容量(ADI)が設定されている。また、実際の摂取量がマーケットバスケット法や陰膳法により確認され、公表されている。その結果から、全く問題ないことが明らかである。一般市民の認識とは異なり、これらのリスクは通常食品に比べ小さいのである。

化学物質が生物に与える毒性を研究する「毒性学」という学問分野がある。毒性メカニズムの解明や治療方法の開発が課題になる。ここで重要な考え方が、用量依存性である。ちょっと難しい言葉だが、投与量が増えれば影響が大きくなるということだ。反対に少なければ小さくなり、ある量以下では影響が認められなくなる。この量を閾値(いきち/しきいち)という。用量依存性のことを、毒性学の祖パラケルススは「この世に毒でないものはない。あるものが毒になるか薬になるかはその用いる量による」と看破している。

発がん作用のある化学物質や放射線はもう少し考え方が複雑である。少量でも閾値が存在しないという考え方と閾値の存在を認める両論があるからだ。前者であっても発がんの自然発生率が実質的な閾値になると筆者は考えている。放射線でいえば、年間100ミリシーベルトが該当する。

毒性や有害性を問題にする場合、量に触れてこそ意味がある。メディア報道には、このことを改めてお願いしたい。最低でも、ADIと用量依存性くらいは理解している市民を増やしたい。食品安全に関わる報道の質を判断するリテラシーになるからである。

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