米穀通帳

食品化学新聞「食品技術士リレーシリーズ」2020年2月20日掲載

  齋藤 健  技術士(農業部門) 

 某雑誌の記事によると、日本が米国と戦ったことを知らない女子大学生が多いという。僅か74年前の出来事である。当然、米穀通帳という通帳がなければ、お米を購入することができなかったことも知らないであろう。これは今から80年前の昭和14年に米穀配給統制法という法律が公布されたことによる。当時支那との戦いが始まっていて、解決の道が見通せないことから食料、中でも日本人の主食である米の安定供給をめがけて節米運動がおこり、搗精等制限令が公布され、精米歩合を低くして量の確保が奨励されるようになった。これ以来、現在我々が食べている白米は銀しゃりと称せられるようになったのである。昭和15年には米穀管理規則により農家は自家消費分を除いて、作った米を国へ供出することとなった。米国との開戦が迫った昭和16年には生活必需物資統制令が公布され米穀、酒、卵、魚類が統制下に置かれ、大都市では配給通帳で配給され公定価格で販売されることになった。

 大東亜戦争勃発後の昭和17年2月には食糧管理法が制定され全国で米穀配給通帳制度が実施されることになった。配給量は年齢により決まっていて、1歳から5歳が毎日120グラム、6歳から10歳が200グラム、11歳から60歳が330グラム、60歳以上が300グラムであった。330グラムが2合3勺に相当したが、戦況不利になるにつれて2合1勺まで減った。配給も100%米ではなく、押し麦や大豆かすが含まれることも多かった。当然配給だけでは庶民の胃袋を満足させられるはずはなく、闇市場での食料の商売が盛んになっていった。闇市場は敗戦前よりも敗戦後のほうがよりひどくなっていった。昭和20年10月には闇市場でのコメの価格は公定価格の実に49倍に達したという。当時の農民はインフレによる貨幣価値が下がることを予見していて、金だけでは米やイモを売らずに着物などの現物を要求したという。

 私は名古屋市で昭和13年4月小学校に入学、4年生の昭和16年、大東亜戦争勃発、昭和19年4月愛知県立の中学に入学、勉強したのは夏まででその後は軍需工場に勤労動員された。当然2合3勺時代を体験した。体験から言えることは、食糧事情は戦争中よりも戦後のほうが厳しかった。戦争中は軍部とか軍需工場の食糧は優先的に確保された。我々のような動員された生徒にも工場では一般工員並みの給食が用意されたし、朝鮮からの工場労働者にも給食はあったはずである。終戦後は一転して食料配給や食糧確保の国家機能が弱くなり、農民が供出しなくなり遅配、欠配が続出、先述のように闇市場が盛況となった。この闇市場で大きな顔をしていたのが三国人と言われた朝鮮人である。朝鮮勝った、日本負けたなどと言って傍若無人のごとき態度で仕切っていた。日本はアメリカには負けたが朝鮮には負けた覚えはないのになぜこんなことを言うのかと悔しかった思い出がある。昭和21年4月、中学3年となったが端境期の5月から6月にかけては食料不足から弁当をもって学校へ行けない生徒がいるという事情で週5日制となったことがある。疎開先から帰った母のタンスから着物が一枚、二枚というように出て芋や米と変わっていった。この時分の百姓の傲慢さも決して忘れることができない。

 昭和22年10月、東京地裁の山口判事が法律違反の闇市場で食料を買うことを拒否して34歳で餓死された。このころを境にして軍隊から復員した働き手が増えて徐々に食料としての米が行き渡るようになっていった。一つの大きな原因として昭和23年から25年にかけて日本を占領した総司令部が農地改革と称して地主から国が一方的に農地を買い上げて安い価格で小作農民に売却したのである。自作農は284万戸から541万戸に増えた。そのかわり地主は悲惨な目にあった。この農地改革を熱心に推進したのは共産党であったが、自分の土地を持った自作農はみんな保守派になったのは皮肉である。昭和25年に大学へ進学、京都に下宿したがこの頃は米穀通帳から外食券切符を発行してもらい、食堂へ出せば若干割引の価格で食事ができた。ただ米穀通帳そのものは徐々に形骸化していった。昭和44年に政府を通さない自主流通米制度が出来て国内の米は自由化された。

 飽食の時代となったようであるが昨今の地球温暖化に伴う異常気象頻発はいつ旱魃による不作が起こるか分からない。北朝鮮のようにならないように我が国も食糧備蓄を考える必要があるのではないだろうか。ちなみに石油備蓄は国として原油4800万㎘で3か月分はあるという。

筆者紹介:発酵工業会社、国連食糧農業機構、ODAコンサルタントとしての経験豊富、日本エッセイストクラブ会員。

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