お酒にまつわる話(下る話、上る話)

食品化学新聞「食品技術士リレーシリーズ」2020年4月16日掲載

技術士 佐藤正忠 (農業/経営工学部門)

 酒は中世までは濁酒(だくしゅ=濁り酒)が中心であったが、室町時代に現代の清酒の源となる諸白(もろはく)が誕生する。この諸白は、それまでのように玄米からでなく、精白米のみを使用し、また搾り過程を導入して、酒の透明度を高めた。江戸時代に入ると仕込み回数を増やすなどの技術改良が加えられて質量ともに向上した。それ以前の酒はまさに自然醸法で白濁したままのものを飲んでいた。

 このような清酒は兵庫県では伊丹、大阪は池田の酒蔵で造られ、これが船で運搬されるいわゆる「下り酒」として大流行するようになった。江戸で「丹醸」の名で好まれた酒を送り出した伊丹では、17世紀末~18世紀前半に第1次、18世紀末~19世紀前半にかけて第2次の生産ピークを迎えたという。伊丹市教育委員会では、酒蔵の中心であった伊丹郷町遺跡に酒造のピーク時に米を蒸す「竈(かまど)」、「醪」を濾過する「搾り場」の規模が拡大されていることが分かる。

 江戸の旺盛な需要を賄えられるよう、醪を作る槽(現在の仕込みタンク)を増やし、竈の燃焼部に灰の掻きだし溝を設けるなどいろいろな技術改良がなされた。18世紀後半になると新興の神戸灘地域に水車を使用した精米技術の開発、また六甲山の宮水という天然由来の仕込み水のおかげで、酒の主要生産地になった。これは現在も灘五郷と云って多くの名酒醸造蔵がある。当時は灘が約45%、伊丹が33%と大部分を占め、江戸の近郊で造った地廻り酒は5%未満であった。

 この水の違いはかなり大きく、江戸周辺には酒造用水の出るところが少なかったためか、酒の代わりに醤油醸造が多かった。伊丹市郷町美術館には約340年前の造り酒屋の外観、当時の酒造用器具などが保存されている。国立国会図書館にある江戸名所図会には新川に船が着き、大きな樽酒の荷卸し作業の様子が伺える絵がある。このように酒は上方から下り、江戸の酒問屋に卸されたのである。摂泉一二郷で造られた酒は品質がよく、江戸での表場は非常に良かった。江戸まで約600㎞の海路で約10日間(これも天候次第で海が荒れれば1か月かかることもあった)の道のりで酒の熟成には非常に役立った。波に揺られて酒はやわらかく丸みが出るなどうまくなる。

 江戸の人達はこの酒樽が「東下り」中ずーっと左側に富士山を見ながら運ばれてきたので特に富士見酒と呼んで親しんだという。さらに珍重されたのが「戻り酒」で「下り酒」を再度上方まで運んだ「上り酒」のことである。船で揺られる時間が一層長くなり熟成も一段と進み酒のうま味が倍増したに違いない。

また当時は4斗樽を2本振り分けて馬でも運んでいた。酒樽2本とは結構な重量で馬も重労働で大変であったろうが、ここでも樽が揺れるので酒の熟成が起きるため酒にとってはよい工程であった。江戸時代の商品学書といわれた「万金産業袋(ばんきんすぎわいぶくろ)1732年刊」には関西地区の酒とその輸送について次のような記述がある。

 (酒を)造り上げた時は、 酒の気は甚だ辛く 鼻をはじき、なんとやらん苦みの有りやうなれども
遥かの海路を経て、江戸に下れば、満願寺(池田の酒)は甘く、稲寺(伊丹の酒)には気あり、鴻の池(伊丹近辺の酒)こそは甘からず辛からずなどして 

その下りしままの樽にて飲むに、味ひ格別也。これ4斗樽の内にて、浪に揺られ、潮風に揉まれたるゆえ、酒の性やわらぎ、味ひ異になる也

勿論輸送途上や保管中に劣化する酒もあったであろうが、江戸時代には石灰を加えて再濾過して「直し酒」として格安で売る仕組みもあった。石灰の他マグネシウム、牡蠣殻の灰(これも石灰)、胡椒などを加えて、名酒の味に近いと宣伝して売られていた。江戸庶民としては、むしろこのような安酒を楽しんで飲んでいたらしい。

最近の報道で日本の小型ロケットMONO4号の燃料に日本酒を混ぜようという話がある。敢して原材料に日本産のものを使用するとの考え方であるが、はたして効果はどうであろうか?焼酎ならいざ知らず清酒を燃料にとはいささか疑問符が付く。

ノーベル賞を受賞された大隅博士も研究材料にされていた酵母は、人類が最も詳細に解明している生物であり、酒は酵母の最高の贈り物であると云われている。
以上酒にまつわるお話でした。最近読みました佐伯 泰英著「新酒番船」光文社版読むと面白いです。文庫本です。

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